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(1997/5/10 しんぶん赤旗)   


 今年は、イギリスの実験物理学者、J・J・トムソンが電子を発見してからちょうど百年になります。物質の成り立ちを探求する科学の歴史の中で、この発見は新たな時代の幕開けを告げる出来事でした。このシリーズでは、トムソンの発見にちなんで、原子より小さいミクロの世界に踏み込んだ物理学が、ミクロの世界の法則に到達するまでの、約四半世紀ほどの歴史を紹介したいと思います。  

電子が発見されるまでは、物質を分割した最小の単位は原子という粒子であり、原子は元素の種類に対応して軽いものや重いものがあり、また、原子をそれ以上分割することは不可能である、と考えられていました。この物質の原子論は、電子の発見よリ百年ほど前、イギリスの科学者、ドルトンによって、化学反応にあずかる物質間の量的な関係を、総合的に説明できる、もっとも単純で合理的な理論として確立されたのでした。    
 一七九九年にイタリーのボルタが電池を発明してから、物質と電気の相互の関係が化学の新たな研究分野となり、一八三三年にはイギリスの化学者であり物理学者であるファラデーによって、電気分解される物質の量とそれに必要な電気量の間にきちんとした比例関係があるという、電気分解の法則が確立されました。一八七五年になると、アイルランドのストーニーは、水素の電気分解に必要な電気量から考えて、水素原子一個分には約10-20クーロンの電気量が相当することを算出し、初めて「電子(Electron)の呼び名を与えました。しかし、これは粒子としての電子を考えたのではなく、また電気素量の概念を与えるものでもありませんでした。   
 トムソンは一八五六年、マンチェスターの近郊に生まれました。十四歳でマンチェスター大学に入学、工学や科学を学んで一八七六年にケンブリッジ大学を卒業、一ハハ四年に同大学のカヴェンディシュ研究所の教授となり、立派な基礎実験物理学の拠点を建設したのです。
 彼が電子を発見することになったのは、陰極線の研究からでした。陰極線は、一八五五年ごろからドイツのボン大学の技術者、ガイスラーが、同大学の物理学者プリュッカーの求めに応じて開発した真空放電といわれる実験から発見されました。ガラス管の中に電極を封入し、高電圧をかけながら管内の空気を真空ポンプで抜くと、希薄になった気体を通して放電が起こり、気体元素特有の色の光(プリズムを通してスペクトルに分解することができる)を発する、という実験です。さらに管内の空気も抜いて放電管の気圧を下げると、真空放電の光は弱くなり、かわりに管のガラスが薄緑色に蛍光を発します。その様子があたかも陰極から光線のようなものが放射され、ガラスに当たっているように見えるため、この放射線を陰極線と呼んだのです。一八六九年ごろまでにはプリュッカーやヒットルフらにより、陰極線は蛍光作用のほかに、直進すること、物体にさえぎられ後ろは影になること、磁気で進路が曲げられることなどが明らかにされていました。  
トムソンは陰極線の正体をつきとめる実験をおこなうために、真空放電管に改良を加えました(図)。陽極にスリット(細いすきま)をもうけて陰極から放射される線を細いビームとして管内を通す、ビームを経路の途中で挾むように一対の平行な電極を置き、その電界によりビームを曲げられるようにする、ビームの当たるガラス面に蛍光物質を塗り、その位置を見やすくする、などです。これは今日のブラウン菅の原型です。
 平行電極に電圧をかけると、ビームによる蛍光面の輝点がその平行電極の陽極の側に移動します。次に、平行電極の電極面に平行でピームに垂直な方向に磁界をかけ、その強さを加減して、先に移勤した輝点かもとの位置にくるようにしてやります。トムソンはビームを質量と電荷を持った微粒子の流れと考え、このときの電界と磁界の強さから計算をして、微粒子の質量と電荷の比を求めました。
 同じ年、ドイツの物理学者カウフマンも陰極線の粒子の質量・電荷比を求めましたが、結果をより深く考察したのはトムソンでした。彼は、放電管中の気体の種類や陰極の金属の種類を変えても、常に同じ質量・電荷比が得られること、また、電解で得られる水素の・質量・電荷比の値より二千分の一も小さい値であることから、この粒子がマイナスの電荷を持ち、もっとも軽い水素原子よりはるかに小さく、あらゆる原子に共通した粒子、電子であると考えたのです。
 このことは、あらゆる元素の原子が、電子という共通の部品を持つことを意味し、それまで物質の究極の単位と考えられていた原子も、より小さい部品に分解できることを、人びとに確信させることになったのです。
 こうして、物質の本質を究明する科学は、新しい時代に踏みこむことになったのです。
  (今野 宏・関東学院大学講師=物理学)   =土曜掲載

   
(1997/5/17 しんぶん赤旗)
   
 J・J・トムソンか発見した電子は、一定の質量と負の電荷をもって運動する微粒子でした。しかし彼は、質量と電荷の比を示したものの、その時はそれそれの値を断定的には示しませんでした。
  一八九九年、トムソンはウィルソンの露箱(C・T・R・ウィルソンは空気を膨張させると霧が発生することを利用して霧箱を作り、一九一〇年には放射線の飛跡を霧のすじ状の線として観測したことで有名)を使い、陰極線粒子は電気分解の際の水素イオンと同じ量の電気を持つことを証明し、彼の電子発見の研究を完結したのでした。しかしその値は、精度の点で満足の得られないものでした。
 電子の電荷の精密な値を実験により示したのは、アメリカの物理学者、H・A・ミリカン(一八六八年、イリノイ州生まれ)でした。
 彼はオウバーリン・カレッジで修士号をとり、コロンビア大学で博士号を獲得しました(一八九五年)。ついで、ベルリンおよびゲッチンゲン大学で学び、一八九六年にシカゴ大学に職を得ました。
 一九〇七年、妓はトムソンやウィルソンがおこなっていた水滴に付着する電荷の研究をさらに発展させ、水滴を自然落下させる方法で電子の電荷を測定する実験を始めました。しかし、水滴では観測中に蒸発して大きさが変わってしまい、正確な値が得られないことから根本的な改良をくわえ、油の滴(油滴)を使うことにしました。  
 ミリカンの装置は、油を噴霧器で散らして直径数ミクロンの油滴を作り、電極の上部の小さい穴から電極の間に導きます。そこヘエックス線を照射して帯電させ、電界を変化させて、油滴の落下速度の変化を顕微鏡で観測して油滴の電荷を測定しました。
 得られた値のすべてが、ある最小単位量の整数倍になっていることから、この単位量を素電荷(または電気素量)と呼び、電子一個が持つ電気量と定めました。
 ミリカンはさらに一九一六年にかけて実験を繰り返し、電子の電荷として(1.590±0.002)x10-19クーロンを得ました。(現在の値は1.602X10-19クーロンで、その差は0.8%に過ぎない)。素電荷の決定はまた、電子の質量が水素原子よりはるかに軽い(およそ二千分のー)ことにも確信を持たせたのです。
 同時に、原子から電子を除いた部分には、正の電荷があり、物質の質量の大半をになう部分が存在するはずであること、などの新たな疑問が浮かび上がることとなったのです。
  (今野 宏・関東学院大学講師=物理学)   
(1997/5/24 しんぶん赤旗)   


 J・J・トムソンは、負の電荷は原子内の小さい粒である電子が担っているのにたいし、正の電荷は原子全体に平均してひろがっている、と考えました(トムソンの原子模型、一九〇三年)。ほぼ同じころ、日本の物理学者、長岡半太郎の考えた模型は、正電荷をもった球体のまわりを多数の電子がリング状に連なって回転しているというものでした(土星型模型)。
 これらの模型が提案されると、いずれの模型が真実かをめぐって物理学者の間で広く議論が起こり、理論的にも実験的にもさまざまな試みが展開されます。その中の一人に、放射線の研究を精力的に進めていたE・ラザフォードがありました。
 ラザフォードは一八七一年に二ュージーランドで生まれ、奨学金でカンタベリー・カレッジに学んだ後イギリスに渡り、ケンブリッジ大学・キャベンディッシュ研究所の研究生となり、ここでトムソンとの共同研究で、エックス線が気体を電離させて正負のイオンを作ることを発表(一八九六)しています。一八九八年、モントリオールのマギル大学教授、一九〇七年、マンチェスター大学教授、一九一九〜三七年にはJ・J・トムソンの後任としてキャベンディツシュ研究所の所長を務めました。
 彼は一八九九年、放射線には透過力の違うアルファ線とベータ線があると発表、一九〇八年には磁場によりアルファ線が曲がることから、その正体は正電荷の重い物質粒子であること、一九〇八年にはアルファ線(アルファ粒子)はヘリウムのイオンであることを実験で立証するなど、数々の研究をしていました。  
 彼が注目したのは一九〇九年にガイガーとマルスデンがおこなったアルファ線を薄いアルミ箔(はく)に当てる実験の結果でした。大部分のアルファ粒子がトムソンの模型から予想されるように小さい角度しか進路を変えないなかで、予想以上の数のアルファ粒子が九〇度以上の大きい角度で曲がるのです。ラザフォードは種々の元素についてもアルファ線の実験をおこない、また、アルファ粒子が正の電荷を持つ的(まと)によって散乱される様子を表す計算式を導き、実験結果と計算結果を照らし合わせました。
 その結果、元素の原子番号と等しい数の正の素電荷を持ち、長岡の土星模型の正電荷球よりはるかに小さい10-13p程の原子核(原子は約10-8p)と呼ぶべき粒子の存在を立証したのです。
 原子はそれまで考えられていたよりもはるかに小さい粒子からなっていて、物質はすき間だらけであるという、意外な物質像が浮かび上がってきたのです。
  (今野 宏・関東学院大学講師=物理学)  =土曜掲載 「プラスの電気はどこから?」は「どこに?」に訂正
(1997/5/31 しんぶん赤旗)   

 
 ここで、電子の話からそれると思われるかもしれませんが、光の話を紹介しておきましょう。
 空間を伝わる電磁波が存在し、光も電磁波の一種であろう、と理論的に予言したのは、イギリスの物理学者マクスウールでした(一八六一)この予言は1888年にドイツのヘルツにより実験的に確認され、光の粒子説は影をひそめました。
 ストーブや太陽など、高温の物体が放射する熱線も光より波長の長い電磁波です。大きな鉄塊を焼き入れする工場では、大きな炉に鉄塊を入れ、温度を上げていきます。炉内の温度を監視するためにもうけられた小さいのぞき窓から見ていると、最初は真っ暗で何も見えませんが、温度が上がるに従って暗い赤の光が見え、次第に明るい赤、黄色、白色、と変わってきます。同時に熱線も放出されます。
 物理学者たちがこの現象を観測し、炉の温度が上がるにつれて、炉内の電磁波(光や熱戦)の波長と強さの関係が、グラフの曲線のように変わっていることがわかりました。
 このような曲線(波長、強度、温度、の関数関係)はどうして成り立っているのかを、今までに知られている物理法則から説明するのが理論物理学の役割です。レイリーとジーンズが考えた公式は、波長が長いときはよく実験と合い、波長が短いときはウィーンの提案した公式がよく合いました。その反対ではいずれの公式も実験からずれてしまいます。
 ドイツの物理学者M・プランクは、これら二つの公式をヒントとして、全波長領域で実験とよく合う公式を発見し、さらにその公式が意味する物理的原理について考察を深め、工ネルギーにかんする革命的な考えに到達したのです。それは、すべての物体はそれ以上分けられない原子から成り立っていると同時に、エネルギーも限りなく小さく分けられるような連続量ではなく、ある素量(エネルギー量子)から成り立っている、というものです。この考えにもとづき、熱放射にかんする理論は完成したのです(一九〇〇)。  
 プランクの考えによれぱ、エネルギー量子は電磁波の振動数が大きいほど(波長が短いほど)大きいので、エネルギーの不連続が目立ち、波長が長いときは連続しているように見えることになります。エネルギー量子が大きくなる光は、一動する粒子としての性質が顕著になり、光量子(フォトン)と呼ばれることになります(一九〇五年、アインシュタインの光量子説)。
 光にかんするこれらの考えは、後に電子の驚くべき正体を発見する糸口になるのです。
  (今野 宏・関東学院大学講師=物理学)   =土曜掲載
(1997/6/7 しんぶん赤旗)   


 もう少し、光にかんする話を続けましょう。それは、化学実験の炎色反応、あるいはガイスラー管によるガス放電で見られる元素に特有な色の光についてです。それらの光を、スリットと呼ばれる細いすき間を通してプリズム分光器などで見ると、何本かの波長の異なる光の線に分かれまず。それ一連の波長の組み合わせはスペクトルと呼ばれ、元素の種類に特有のスペクトルを持つことから、原子スペクトルともいいます。
 この性質を応用して、スペクトルを観測してその物質に含まれ元素を調べることができます。これは、分光分析法といわれ、ドイツの化学者R・W・プンゼンによりその基礎が確立されたのです(一八六〇)。この方法は新元素の発見にも有力な手段で、おなじ年にプンゼンはセシウムと、翌年にはルビジウムを発見しています。
 原子スペクトルは元素の種類によりさまざまで、それらの間に規則性を見いだすことは困難でした。しかし、一八八五年に至って、もっとも軽い水素の原子スペクトルにかんして、スイスの中学校の教師であるパルマーが最初にスペクトル系列の公式を発見したのです。彼は、波長の長い方から四番目のスペクトルまでの波長がそれぞれ、ある波長 h(=3645.6×10-8
p)の9/5,16/12,25/21,36/32倍になっていることから、これらの分数が、n2
/(n2
-4),ただしnは3,4,5,6と続く整数、であると解読したのです。しかし彼は、水素以外の原子スペクトルについての規則性は発見できませんでした。  
 その難問の答えを見つけたのはスウェーデンの物理学者、J・R・リュードベリでした。彼は、バルマーの公式を下敷きにし、他の原子スペクトルにも当てはまる規則(公式)を見つけるため、スペクトル線を主、純、鋭(=P,D,S)の3系列に分け、それぞれの系列に共通した公式(リュードベリの公式)と、すべての系列に共通の普遍定数(リュードベリ定数を提出(一八九〇)し、また、異なる系列間の関係を考祭し、リュ ードベリ‐シュースターの規則を提出しました(一八九六)。
  リュードベリによる規則のー般化は水素原子スペクトルのバルマーの系列の紫外線寄りにも、赤外線側にも、さらに多くの系列があることを予想させ、発見されました。それらは、発見者の名前で呼はれ、波長の短い(エネルギーの高い)順に、ライマン系列、ハルマー系列、パッシェン系列、プラッケット系列、と呼ばれます。
  これら原子スペクトルの規則性が、1,2,3,・・・という整数を含む数列で表現できることは、前回のエネルギー量子と考え合わせて、原子内部のエネルギーが、同じく整数により並べられるとびとびの値しかとれないことを暗示しているのです。    (今野 宏・関東学院大学講師=物理学)  =土曜掲載
(1997/6/14 しんぶん赤旗)   


 さて、J・J・トムソンによる電子の発見とE・ラザフォードによる原子核の発見は、物質すなわち原子は電子と原子核で組み立てられているに違いない、との考えを人びとにもたせました。最も簡単な水素原子は、それぞれ正と負の素電荷をもった原子核と電子の対で、軽い電子は重い原子核のまわりを、原子核の正電荷の引力を受けながら円運動している、と考えます。ちょうど、太陽のまわりを公転する惑星の場合のように、二ュートンカ学を使って電子の軌道半径と回転周期の関係が計算されます。
 しかし、それだけでは軌道半径は定まらず、水素原子の大きさはまちまちになってしまいます。なにか、半径を決める条件があるはずです。
 ところが、この太陽系モデルにはもう一つ無理がありました。マクスウェルの電磁理論によれば、原子核のまわりを回転する電子はエネルギーを電磁波の形で放出して失い、やがて原子核に落ち込んでしまうはずなのです。そうなれば、すべての物質は電気を失った原子核だけからできていることになり、ラザフォードの発見と矛盾します。
 この矛盾を解決する大胆な考えをもって原子模型を組み立てたのはデンマークの物理学者N・ボーア(ーハハ五〜一九六二)でした。彼は、電子の角運動量は、ある値(角運動景素量=1.055×10-34
・秒)の整数倍しかとり得ない、と仮定して電子の軌道半径と工ネルギーを計算したのです。するとn番目の軌道半径は(0.529×10-10)n2(m))となりました。もっとも小さい軌道はn=1の場合ですから、括弧内の数値で、「ボーア半径」といわれ、ほぼ原子の大きさになります。また、電子のエネルギーは(-2.18×10-18)/n2(ジュール)で表され、括弧内の値がn=1の軌道にあるときの最低エネルギー状態です。軌道やエネルギーの順番を表すnを「量子数」と呼びます。
  電子がn番目い高い工ネルギー状態からn番目の低い状態に移るとき、そのエネルギーの差に相当する光子を放出するとして波長を計算すると、メートルで、(9.12×10-10)・n2n'2/(n2-n'2)と計算されます。ここでn'=2としてnを3・4・5・6と順番に変えて波長を求めたら、なんと、実験で観測される水素原子スペクトルのバルマー系列と一致するではありませんか。そればかりか、n'を1・3・4とすると、ライマン、パッシェン、ブラッケットの系列も全部でてきたのです。
  原子のボーア模型が発表される(1913)や、世界の物理学者がいっせいに注目し、それぞれ自説をひっさげての大議論が展開されることになります。そして、コペンハーゲン大学は 弱冠二十八歳のボーアのために、理論物理学教授のポストを用意したのでした(就任は一九三八年)。
  (今野 宏・関東学院大学講師=物理学)=土曜掲載
(1997/6/21 しんぶん赤旗)   


 ボーアの原子模型が水素原子のスペクトル系列を大変よく説明していることはとても偶然とは思えません。ボーアが模型を組み立てる前提とした「角運動素量の整数倍の軌道だけが許される」という条件(ボーアの量子条件)は、なにかもっともな根拠があると思われます。しかし困ったことに、この量子条件は、すでにその正しさが十分に試されているマックスウェルの電磁理論と相いれないのです (前回参照)。
 この難問にたいして、物質にかんするまったく新しい考えを導入することにより解決の道を開いたのは、フランスの物理学者、ド・ブロイ(一八九一〜一九八七)でした(一九二三)。粒子の運動では、整数が特別な意味を持つことはめったにありませんが、波動ではしばしば整数が現れます。たとえば、弦を弾いたときの振動は基本周波数とその整数倍の振動とが重なっているものです。ド・ブロイは、ボーアの理論に整数が現れるのは、電子白身が波動の性質をもっているからではないか、と考えたのです。
 J・J・トムソンの実験でもN・ボーアの模型でも、電子は運動する粒子として計算されてきました。それを改めて波として考え直すのですから、ド・ブロイの発想は唐突と思う人もあるでしょう。しかし、その発想にはアインシュタインの光量子説(一九〇五)という下敷きがあったのです。
 光は回折や干渉という波動独特の現象を見せることから波と考えられましたが、光が金属内の電子を外へはしきとばす光電効果やエックス線が電子と衝突した後に、電子に与えた工ネルギーの分だけエネルギーが小さくなるコンプトン効果などは、光をその振動数に比例したエネルギーをもって運動する粒子(光量子)として初めて説明がつくのです。
 すなわち、光は、ある時は波として振る舞い、またあるときは粒子として振る舞うという二重性格者なのです。ド・ブロイは粒子と波の二重性格を光だけでなく、電子のような物質を構成する粒子にまで拡張したのです(この波はド・ブロイ波、または物質波といいます)。
 ド・ブロイは、一周の長さが物質波の波長の整数倍になっている軌道だけが許される、とするとボーアの量子条件が簡単にでてくることを示しました。
 その後、陰極線を金属箔(はく)に当てると、ちょうど工ックス線を当てたときのような回折像が見られることから、電子は原子外の自由空間でも波動であることが確かめられ、物質波は実験的にも確認されたのです。
  (今野宏・関東学院大学講師=物理学)=土曜掲載
(1997/6/28 しんぶん赤旗)   


 N・ボーアの原子模型が水素原子スペクトルの説明に成功すると、水素以外の原子についても電子の軌道とスペクトルの関係の綿密な研究がおこなわれるようになりました。その結果、周期律表の上での原子内の電子の配置の様子が次第に明らかにされました。
 それらの研究をとくに注意深く考察したのは、オーストリアの物理学者W・パウリでした。彼は、原子を組み立てる電子が、どのような規則にもとづいて軌道上の席を占めていくかを説明したのです。
 まず、一個の原子内の電子は四つの量子数で特徴づけられます。
 第一は、主量子数といい、整数nで表します。これは、軌道のエネルギー順位を表すものです。n=1,2,3,4・・に対応して軌道は原子核を中心として内側から順に層状にとりまきます。これらを電子殻といいます。内側からK殻、L殼、M殼、N殻、・・・とよびます。
 第2は、方位量子数といい、整数lで表します。主量子数nの軌道にはl=0,1,・・・,(n-1)という量子数があります。これらは軌道面の方向を示すもので、s軌道、p軌道、d軌道、f軌道、などと呼ばれます。
 第3は、磁気量子数で、整数mで表します。方位量子数lにたいしてm=-l,-(l-1),・・・,-1,0,+1、・・・+(l-1),+lの、全部で(2l+1)個の量子数からなっています。
 第四は、スピン量子数といい、sで表します。sには+1/2,-1/2の二つしかありません。
 パウリは、n、l、mで定まる一つの軌道には、sがそれぞれ正と負の二つの電子までしか入れない、という規則を提案しました(1925)。これをパウリの原理と呼びます。この規則に従って水素原子から周期律表の順に電子を当てはめてみましょう。原子番号1番の水素はn=1のS軌道に一個の電子が入るだけです。2番のヘリウムは、同じ軌道に、Sの正と負の電子2個を入れます。n=2のL殻はl=0,1すなわちs、p、2つの軌道があり、s軌道には2個、p軌道はさらにm=-1,0,+1の三つの軌道に分かれるので六個、合計八個の電子が入れることになります。一つずつ順に入れていくと、原子論号3番のリチウムから10番のネオンまでが並びます。このように順に殻を埋めていくと、ちょうど周期律表の規則に従った電子の配置ができるのです。
 電子の状態を示すこれら四つの量子数は、さまざまな原子スペクトルを周期律表と対照しながら分析し、得られた結果だったのです。
  (今野 宏・関東学院大学講師=物理学)   =土曜掲載
(1997/7/5 しんぶん赤旗)   


 四つの量子数とパウリの原理で周期律表に対応した電子の配置は見事に説明されました。主量子数はボーアの原子模型で初めて案出されたのですが、他の3つの量子数も、スペクトルと軌道遷移を、電場や磁場の影響などを加味してより詳しく考察して得られたのであり、同じ考えの延長であるといえます。
 いっぽう、電子は物質波であるとするド・ブロイの仮説は、量子化(エネルギーや運動量に整数が現れること)をよく説明します。
 しかし、ある時は粒子で別の時は波、などという物体はとても考えにくいことでした。なかには、物理学的自然像もしょせんは脳に映った幻と考える人もありました。
 そのようななかで、ドイツの物理学者E・シュレーディンガー(一八八七〜一九六一)は、ド・プロイの物質波と粒子像との統一を徹底的に考察し、一つの基礎方程式を提出したのです(一九二六)。それは「シュレーディンガーの波動方程式」と呼ばれ、これにもとづく理論を波動力学といいます。この理論によると、l、m、nの3つの量子数が方程式の解として出てき(4つ目の量子数sは一九二ハ年のM・ディラツクによる方程式の相対論を入れた改良により出てくる)、電場・磁場の影響下でのスペクトル観測ともよく一致するのです。
 波動力学が提出される前の年、ドイツの物理学者W・ハイゼンベルク(一九〇一〜一九七六)はボーアの量子論を発展させた行列力学というものを提出しました。この理論では波動については考慮されていないのですが、その結果は波動力学と奇妙に一致するのです。シュレーディンガーは一致の理由についても考察し、とうとうこれら二つの理論はまったく同等なものであることを証明してしまったのです(一九二六)。ここに量子力学が生まれたのでした。
 量子力学では波の振幅の2乗は粒子の存在確率を表すと解釈されます。一つの水素原子の電子が瞬間ごとにどこにあるかは気まぐれですが、何回も観測すると、点密度の濃淡として軌道の形が描かれるのです。
 量子力学は、電子以外のミクロな粒子にも当てはまります。物理学はついに、これまで通用していたマクロ世界の物理学とは異なる、ミクロ世界の運動法則の理論体系を構築することになったのです。
 だが待ってください。マクロな物質もミクロな物質の集合ですね。それなのになぜ従う法則が違うのでしょう。
 いや、疑問に思われる点、もっともです。次回はその説明をしなければなりません。
  (今野 宏・関東学院大学講師=物理学)  =土曜連載
(1997/7/12 しんぶん赤旗)   


 わたしたちが直接感知できる自然界は、ほとんどが無限といってよいほど多数の原子からなる物体と、その物体が存住し運動する広さの空間から成っています。科学的観測や実験と、諸現象の因果関係を考察する一論との交流を通じた科学の発展は、わたしたち人間の自然認識能力を飛躍的に拡大していきました。
 太陽系の惑星間に成り立つケプラーの法則から万有引力の存在が証明され、電気・磁気の不思議な現象を系統的に実験したファラデーの電磁気学をマックスウェルが理論的に研究して、電磁波の存在を予見し、さらに、熱の本性を分子・原子・電子などの粒子の運動と電磁波のエネルギーと見ることができたのも、認識範囲の拡大を示しています。
 J・J・トムソンによる電子の発見から量子力学の成立までの物理学の発展は、わたしたちの世界より極端に小さいミクロの世界にまで認識範囲を拡大し、そこで成り立つ物理法則がマクロ世界のものと違うことを示したのです。
 一方、ミクロの物質を積み重ねてマクロの物質の世界があるので、これらをまったく別の世界と考えるわけにはいきません。そこで、自然は一つだけれども、そのスケール(サイズに限らない)の違いによりいくつもの階層に分かれていると見ます。これを「自然の階層構造」と呼びます。
 ところが、大変都合がよいことに、ミクロの階層の物理法則、量子力学は、より数の多いミクロな物質の集合体に当てはめていくと、次第にマクロ世界の物理法則、古典物理学に近づくという形になっているのです。それもそのはず、量子力学の開柘者たちは、量子論は、法則は異なっていても、古典物理学に対応する理論構造をもつべきだ、と考えて研究したからです。
 二十世紀も終わろうとする現代の科学は、自然界を全面的に解明しようとしています。そのごく大まかな階層構造は図のようであるとみられます。
 物理学は、さらに新たな理論を構築し、素粒子のさらに下の階層、クォークの世界を発見しました。またミクロの物理学を使って、巨大な宇宙の階層構造も明らかかにされました。一つの階層にも、たとえば生物のように、さらに多数の階層構造があることもわかります、それらの階層にはそれぞれ独自の法則があり、しかもそれらの法則は、互いに異なってはいるが矛盾することなく、隣接する階層の法則の間では対応関係が成り立っているとみられます。
 電子発見から百年。21世紀を目前にして人類の自然認識は巨大な前進を遂げたのです。
          (おわり)  (今野 宏・関東学院大学講師=物理学)  =土曜掲載
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