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1996/7/11(長崎)

社説 中心碑が問い掛けるもの

 長崎市の原爆落下中心碑問題は、同市が新モニュメントの制作契約を約1置く4千万円で同市出身の 彫刻家、富永直樹氏(東京在住)と結んだことで、来年9月までに現在の中心碑が撤去され、女性像が 新たに建立される見通しとなった。  しかし被爆者の中には像と一体となる原爆殉難者名簿奉安箱から親族名の削除を求める動きがあるな ど市民の反発の声は根強く、合意形成が極めて不十分なままの見切り発車としかいいようがない。  長崎市は「人物像」建立を決めた理由を「平和公園聖域化検討委員会、その後の平和公園再整備検討 委員会の報告を踏まえて決定した。すでに3月議会で同意を得た」と説明している。  だが、両委員会の報告書をあらためて読み直してみても、報告書からは「中心碑を撤去して、人物像 を建てる」との市の結論にはどうしても到達できない。  両深告書の中で爆心地公園の在り方を述べた部分をみると、昭和57年に発足した聖域化検討委は現 在、平和祈念像前にある原爆殉難者名簿奉安箱を爆心地公園に移設して「折りの公園」とすると決めた だけだ。  それを受けて平成5年に発足した再整備検討委は「現在の中心碑と奉安箱を一体的なモニュメントに する」として位置付け、中心碑のデザインも二つの案を具体的に示している。  一つは「上空を指し示すことにより、原爆がさく裂した史実をより鮮明に記憶し印象づけるもの」と の考え方から現在ある中心碑を生かし、祈念のシンボルとして設置する既存碑再生案だ。もう一つは「 よりシンプルに、水を求めて亡くなった被爆者への慰霊と次世代を受け継ぐ新たな生命の息吹を感じさ せるもの」として、爆心地の位置だけをわき出る泉によって表す案を示している。  両報告書から現在の中心碑を撤去することや「人物像」に替えるとの市の考え方を導くことはできな い。逆に新モニュメントは現在の中心碑を生かすか、抽象的なものに性格づけていると読み取る方が自 然だ。  市は「両報告書とも、どんなモニュメントにするかの結論まではまとめていない」ことを拠(よりど ころ)に、富永氏に制作を依頼することを「行政の責任で決めた」と説明している。  だが、これだけ時間をかけ論議してきた経緯や両報告書の中身を考えると、公園の性格を決定づける モニュメントの決定を市内部だけで結論づけたことはあまりにも乱暴ではなかったか。  同市が進めている「彫刻のあるまちづくり」事業では、美術専門家や有識者による懇話会をつくり、 設置する場所やそこにふさわしい作品などを具体的に検討し、懇話会から推薦された複数の候補作の中 から市が最終決定している。今回はその手法さえとられていない。  また、爆心地公園の中心碑は過去、何度か建て替えられてきた。原初は昭和20年、文部省学術研究 会議・原爆災害調査研究特別委員会によってコンクリート円柱が建てられた。31年にできた三角柱は 市民から募集したデザインを基に制作された歴史があり、43年に石を張り替えて現在に至っている。  さらに「人物像」は「宗教性のないもの」としているが、台座を含むと9メートルに達する巨大像で、 台座に原爆殉難者名簿奉安箱を組み込み、祈りの対象とすることで偶像(神像)としての性格が出るこ とを危ぐする声もある。  市は、「議会の同意」を「市民の合意」として「人物像」建立契約を結んだ。しかし3月定例会で全 会一致で関係予算に同意した議会からは「審議が十分でなかった」との声が起こり、6月定例会では7 議員が新モニュメント建設計画白紙撤回を求める誓願の賛成に回った。  両報告書にあるように、爆心地公園を「折りの公園」にー新したい。そのためには市民が一致して折 りが込められるような整備方向が不可欠だ。見切り発車では折りの中心である被爆者がそっぽを向く公 園になりかねない。いま一度、市は熟慮すべきではないか。

(1997/1/21 長崎)

行政、市民に深い溝
どうなる中心碑問題

伊藤一長 長崎市長 話し合う余地はある 公園の印象と母子像は適合
[対談]
山口仙二被災協会長 市側の説明は不十分 「爆心地」には反核の決意を

 昨年三月の計画公表以来、反対運動が続く長崎市の原爆落下中心碑建て替え問題。計画見直しを求め る同市議会への請願は二度にわたり不採択となり、市は計画に一部修正を加えた後、昨年末から爆心地 公園(松山町)の工事を始めた。市と反対する市民、被爆者らの溝は深まり、問題解決の糸口は見えな い。核兵器廃絶を世界に向けて訴えていくべき被爆地長崎。その重要な使命を背負いながら、将来への 禍根さえ懸念される。混乱を招いた原因は何か、そして今、何をなすべきか。整備事業を進める長崎市 の伊藤一長市長と、反対運勣に取り組む長崎原爆被災者協議会の山口仙二会長の対談を通し、問題をあ らためて考えてみる。(司会は梅原紘児長崎新聞社編集局長)

なぜ建て替えなのか

 ―原爆落下中心碑の建て替えが大きな問題となり、行政と市民の間に溝ができた。そこで二人に率直 に話し合ってもらいたい。まず市長に、なぜ公園整備と中心碑の建て替えが必要なのか。  伊藤市長 被爆50周年を機に平和公園一帯を再整備しようということがそもそものきっかけだった 。平和祈念像、原爆資料館、爆心地、スポーツ施設の全体が対象だった。爆心地以外のゾーンは順調に 進んだ。爆心地も、慎重を期さねばと聖域化、再整備の検討委員会をつくり検討した。ただ、中心碑に ついてはいろんな意見があり、委員会としては最終的にはまとめきれなかった。  山口会長 聖域化の問題は前市長の時から委員会をつくり検討され、伊藤市長に引き継がれた。ここ で大切なのは、中心碑だけでなく、公園全体が原爆で亡くなった人たちを慰霊し、平和を祈るという聖 域化の場であることだ。中心碑、中心地点については市の財産であり、市の計画である程度いけるかな と思うが、市民と遺族と被爆者みんなが納得して進めていくのが今回の基本であるべきだ。  ―公園整備については市民にも反対はないと思う。問題になっているのは中心碑だ。現在の碑ではい けないのか。  伊藤市長 いろんな指摘があっているが、聖域化と再整備の2つの検討委で一定のリポートが出てい れば問題はなかった。しかし、検討してもまとまらなかった。現在の時点で、市議会に諮る前に公募す べきだったなどの意見もあるが、その段階ではこうした指摘はなく知恵が回らなかった。最終的には行 政の責任で内部検討し、咋年3月の定例市議会に提案した。議会制民主主義という一定のルールの中、 行政が決め議会でも真剣に検討してもらった。市民、被爆者などいろんな方々から「伊藤さんこういう 方法があるよ」という議論が昨年3月の時点ではなかった。甲し訳ないが、これが今日の混乱をもたら したのではないか。  ―市長は議会も十分審議したというが。  山口会長 市議はそれなりに勉強もし、被爆者もいれば遺族もいる。市長に対し市民を代表して十分 に質問をしたのか、という疑問が残る。  ―議会に対する市の説明不足はなかったのか。  伊藤市長 昨年3月にはモニュメントがどういう形だと提案できていない。6月議会には反対請願が 出たが、この時点でもまだ原型はなく、請願は賛成少数で不採択になった。像そのものが出たのは9月 議会。5分の1の原型を示し、市民にも見てもらい種々議論があった。12月議会にも署名を含めた反 対請願が出たが不採択となった。議会に対しては議論は深めてもらったと認識している。  ―議員の中にも市の説明は不足していた、との指摘がある。  山口会長 議会は市民の代表だ。行政に対して、きちっと質問することが一番大事。それに行政が答 えることで市民に理解される。今回それがなされてこなかった。  伊藤市長 あくまで平和公園再整備事業の一環として中心地点を新しいものに変えるという予算を計 上した。中心地点の今の三角柱を移設するという言葉では具体的に申し上げていなかったが、新しいも のに変えるとの表現はしている。中心碑を新しくして次の世代、次の世紀に向け、亡くなられた方々の 慰霊と平和、核兵器廃絶の発信地にしようとしている。

なぜ「母子像」なのか

 ―中心碑のとらえ方に行政と被爆者の間に違いがあるようだ。  伊藤市長 爆心地公園の周囲の案内板には、原爆落下中心地と表現してある。上空五百メートルで原 爆がさく裂し、当時の市民の3分の2が亡くなったり傷付いた。中心地点は、ニ度とあってはならない 悲惨な体験をした場所であることを示す指標だ。今の碑は五つ目の碑だが、30年経過しており、被爆 者らに墓標的な気持ちが募ってきたことは理解できる。だが、行政的な位置付けはあくまで中心地点を 示す指標だ。行政としては宗教性を持たせてはいけない。  山口会長 今の三角柱があるところが中心地点となっている。それには諸説があって、地点がずれて いるとの報告もある。要は、中心碑が少しずれたからどうだ、ではない。核兵器の威力というのは、5 0メートルずれたからどうこうではない。母子像についても、傷付いた母であり子供を表現したモニュ メントを造ることは、頭にくるほど反対ということにはならない。碑も大切にしなければならない。だ が、なぜ徹去しなければならないのかが市民の間にはっきりしていないのが一番の問題だ。  ―確かに市民の疑問は、なぜ建て替えするのかという点だ。現在の中心碑ではだめなのか、なぜ母子 像なのか。  伊藤市長 被爆という形で壊滅的、精神的な打撃を受けた。しかし、みなさんの力で今日の復興と繁 栄、平和を成し遂げた。それを踏まえ二度と核兵器を使ってはいけない、平和とは大事なものだという ことを次の世代に引き継いでいくため、平和公園すべてのゾーンを再整備している。爆心地公園は、当 初から中心碑を新たなものに造り替えることを含めた計画だつたととらえている。  山口会長 市民に対し、こういうことで撤去しますという行政の説明が不足している。三角柱を移設 することはそれでいい。市は過去の4本を含め新たな場所に造ろうとしているし―。  伊藤市長 水掛け倫になるが、最初から「中心碑の三角柱を残す」という結論であればよかった。結 論が出なかったから最終的に私たちも悩んだが、せっかく整備するのだからイメージに合ったものにし た方がいいと考えた。今の中心碑を粗末にする気は全くない。今まで十分役割を果たした中心碑を丁寧 に扱い、近くの場所に歴代の中心碑と組み合わせ移設し、新しい物を造らせてもらおうとの考えで出発 した。  ―山口会長は、母子像は構わないが、そこに至る経過が納得し難いということか。  山口会長 沖縄では、戦争被害が分かるような人物像が造られている。だが、母子像は市民の中に、 8月9日のイメージとしてはきれいすぎるという声がある。彫刻家と話を進め8月9日のイメージを出 してもらえないかという思いがある。一番肝心なことは50年先、百年先を考えたとき、核戦争をさせ ないという基本的なことがあの中心地点にないといけない。  ―中心地点については再整備検討委で結論が出なかった。そこで市が富永氏にお願いしたのか。  伊藤市長 本当はコンペとかいろいろな方法があったのかもしれない。そこまで考えが及ばなかった といえば申し訳ない話だが、内部検討した中で富永先生の名前が出てきた。市内にもいくつかの作品が あり長崎市出身で名誉県民でもある。身内の方も原爆で亡くされている。私たちの気持ちを一番理解し てもらえると。  ―その時点でできるだけ市民に知らせておけばもっとスムーズにいったのでは。  伊藤市長 (平成7年5月の)就任直後でもあり、それまでの流れも尊重せねばならない。被爆50 周年の年でもありいつまでも遅らせることもできなかった。そういうことで作業を進めた。  ―母子像はきれいすぎるとの指摘をどう思うか。  伊藤市長 昨年3月議会の後、「ちょっとおかしいよ」との声が上がり、6月議会にデザインを主と した請願が出た。デザインの議論が全くなかったわけではなく、議会と疑義を持ったり反対する方との 議論はこのとき反対請願という形でなされている。  ―本紙世論調査でも、中心碑建て替えは市民の間にかなりの反対があった。その中で市長は聞く耳を 持たないとの指摘もあった。  伊藤市長 市長といえども独断専行で市政を運営することは許されない「いつも戒めている。弁解が ましくなるが(計画に対する疑問の声は)昨年3月の予算議会の終わった日の夜、初めて聞いた。それ まではどなたも私に忠告やブレーキをかけるということがなかった。私たち行政自身もよかれと思って やってきた。長崎のためになる、市民の理解を得られると思ってやってきた。議会の方々も決心しても らった。私は門を絶対に閉ざしていない。いろんな会合にも日常茶飯事出ている。行政のPR不足とい う反省は謙虚に受けなければならないが、タイミング的にも「なんであの時(3月議会の前に)言って くれなかったのか」と悔やまれてならない。  ―計画通り進めるのか。  伊藤市長 一つのチャンスは昨年の12月議会だったと思う。3、6、9月議会を通して五分の一模 型を公表し、反対署名も出た。12月に議会として「爆心地公園の中に移設してこれまでの中心碑の復 元レプリカと一緒にしなさい」との案が出された。これが一つの 。”やま”だった。この時の議会の 新たな提案には、市民のその後の動きも含まれている。「その方が望ましい」という市民代表意見と受 け止めて計画も変更した。  ―行政手続きに問題がなかったとしても、現実的に反対する市民がいる。このままでは行政と市民、 被爆者との溝は埋まらない。市長が公開の場で、率直に話し合う機会が必要では。  伊藤市長 これまで「冷静な場だったら私はお会いする」と答えている。最初からエキサイトして話 し合うのは好ましくない。今回そのような機会を20日設けた。  ―一般市民が市長に会って話を聞く機会は少ない。そういう人に「市長はなぜ強引にやるのか」とい う思いもある。  伊藤市長 行政は昔から宣伝べた。十分反省している。  山口会長 12月議会で市長は一定の説明をし、議会もそれで了解したと聞く。ここまでがタガタや って感情的になれば将来問題として大変なことだ。適当な時期に記者会見でもいいから、市長の信念で 市民に対して中心碑を撤去する理由、新しいモニュメントを造る理由はこうなんだと表明した方が解決 が早いのではないか。  ―市民の代表が議会という論理だけでは溝を埋めることはできないだろう。  伊藤市長 二ーズが多様化し市民の意見を市政の中でどういった形で最大公約数的に反映していくの か、という手法は戦後50年を経て変わってきた。ただ手続き上あくまで議会への請願や陳情、市長に 対しての陳情、なんらかの集会などでしか市民の意見を最大公約数的にくむのは難しい。  ―山口会長が先ほど求めた記者会見についての考えは。  伊藤市長 関係団体から申し入れもあった。冷静な場で話し合いをまずさせてもらう。  ―話し合いの場でも当然出るだろうが、山口会長の今の段階でこうしてほしい、こうあるべきだとい う考えは。  山口会長 市民も被爆者も遺族も納得していない。「なぜ中心碑を撤去するのか」という質問に、行 政側が「こういうことで撤去する、母子像についてはこういうことで造る」といざ一つのことをきちん と説明すべきだ。  ―市長はよかれと思いやってきた、という。反対の声が出てきたこと自体、意外だったのか。  伊藤市長 意外だった。今回の問題に絡めて「ハーグ(国際司法裁判所)で国とけんかしながら頑張 って世界を感動させる陳述をした伊藤さんがなぜこんなことをするのか」とよくいわれる。そのたびに 「核兵器廃絶を願う気持ちは全く変わってない」と説明する。行政の責任で議会に諮り進めているのに 、それが原因で被爆地長崎のこれからの平和行政、平和運動がぎくしゃくしてはならない。  ―計画を修正する工夫はできないのか。例えば今の中心碑を動かさず、富永氏の作品を違う場所に建 てるなど。  伊藤市長 私の方からは難しい。議会サイドからきちんとした形で出てきた時には私自身、真しに受 け止めなければならない。  ―議会サイドには「行政が責任持って決めたから行政で解決すべき」との声があった。反対している 市民から見ればお互い責任のなすりあいにみえた。  伊藤市長 そうだろうか。市政運営はそうではない。提出権、執行権は市にあるが、議決権は議会に ある。  ―原爆死没者名簿の奉安箱は母子像の前に設置するようになっているようだが。  伊藤市長 平和公園に奉安箱を置いていたことがおかしい。爆心地公園にあるのが本当の姿だ。今度 はマイクロフィルム化した名簿を台座の下ではなく前に置くと変更した。原簿は平和会館前に建設され る国の慰霊施設に保管する。  山口会長 私は5本の歴代中心碑前でもいいし、像の前でもいい。来園者に分かりやすい工夫がほし い。英文と日本語で説明していくとか国際都市にふさわしい整備が必要だ。  ―山口会長は中心地点にこだわらず、公園一帯から何を訴えるべきかが大切と考えているのか。  山口会長 ポイントにはこだわっていない。今の核兵器は50メートル離れていても威力は同じ。そ んな問題ではない。今回の市の計画では、中心碑は撤去ではなく移設。そこを信念に基づいて説明する 努力が必要だ。なぜ移設するのかという点をみんなが納得すれば、いつまでもしこりが残ることはない 。市長が言ったようにハーグではいろんな問題があり、政府と向かい合い頑張ってきた。今後もカバー できるところはカバーしながら、広島市長に負けないように活動してほしい。被爆地の市長は世界に二 人しかいない。変に敵対、しこりを残すとだれが損するかというと市民すべてだ。  ―今後、市長はどうやって反対する人に納得してもらうのか。住民投票条例の制定など直接請求の動 きもあるが。  伊藤市長 やはり話し合いをしてからの進展状況になる。直接請求は制度的に認められたルール。い いとか悪いとか、やってほしくないとか、私としては言えない。  山口会長 反対する側がなぜそこまできたのか。納得していないからこうした手立てをしようとして いると思う。ここを早く払しょくしないと、いつまでもモタモタする。そうなれば、市の損でありわれ われの損だ。  ―市の考えを市民がよく理解していない。工事を中断して説明する余裕はないのか。  伊藤市長 冷静な場での話し合いをまず持たせてもらう。機が熟さないとそういう心境に至らなかっ た。お互いの言い分や立場を整然とした中で話し合う雰囲気を、双方がつくれる状況にやっとなった。 それが一度なのか、何回かかるのか。その話し合いの経過を見ないと―。工事はいつでもできる状況だ が、話し合いの過程の中で、中心碑移設工事のことなども出てくるのではないか。  ―行政と被爆者・市民との問に溝を残したままでは、平和発信基地・長崎の機能を発揮することはで きないだろう。率直に向き合ってほしい。とにかく今は話し合いが必要だ。
聖域化検討委員会  平和公園聖域化検討委員会(秋月辰一郎委員長、石野治委員長代行)は昭和57年設置。  学者や地元自治会、、被爆者団体の代表ら21人。  11年後の平成5年3月、報告書がまとまった。  しかし@爆心地は祈り、平和祈念像地区は願いの公園に A爆心地には水をめぐらせる B平和公園の一体化  ─の3点が示されたにすぎない。 再整備検討委員会  平和公園再整備検討委員会(石野治会長)は平成5年設置。  学者、地元自治会代表ら12人。報告書は6年3月まとまり、原爆落下中心地について「中心碑と奉 安箱を一体化したモニュメントを置く」との方針が盛り込まれた。  市は昨年3月、同市出身の彫刻家で文化勲章受章者、富永直樹氏(83)によるモニュメント造りを 公表。 富永氏の解説  原爆で亡くなられた方々の約7割が子供や女性、老人だったことを永久に忘れてはならない。  原爆の悲惨さと被爆で亡くなられた多くの方々のめい福を祈り、尊い犠牲が今日の平和の礎となった ことを念頭に置いている。  子供はあの日の日本の姿、母は世界の国々の人々の姿を具象化し、今日の平和への決意を新たにする もの。  中心碑の変遷  @昭和20年建てられたコンクリート製の円柱。「爆心」「Centre」の文字。  A矢の形。「長崎市松山町170番地」と明記。21年作製。  B23年に市が建てた木製の標柱。「原子爆弾落下中心地之標、地上500米にて炸裂」の文字。  C31年作製の蛇紋石製三角柱  D現在の中心碑。同43年、4代目を黒御影石に 長崎市の見解  @原爆が上空500メートルでさく裂したという史実の記録(中心地点に置き自然に上空を仰ぎ見る ような視線誘導を促し、史実を表現するため中心地点を中心とした円形ですり鉢状の慰霊の場を整備)  A被爆で亡くなった人々のめい福と平和を祈るため、原爆殉難者名簿奉安箱と中心碑の一体化を図り 、祈りの対象とする  B宗教性はない 反対派の見解  現在の中心碑を撤去することに多くの市民は反対している。  中心碑は長い間、被爆者にとって「慰霊碑」の役割を果たしてきた。  この碑の撤去は被爆者の気持ち巻踏みにじるもの。  人物像には宗教上の問題もあり中心碑としてふわしくない。  民意を反映しているとは言い難い。  将来に禍根を残さないために再検討を求める。            中心碑問題の変遷 ▼平成8年
3月22日 長崎市が市議会総務委で計画公表 4月 8日 県平和・労働センターなどが市に初めて「計画再検討」を要請 5月14日 伊藤市長が被爆者団体などの要請を受ける   30日 芸術作品にかかわる問題を考える会が市に約6800人分の反対署名を提出 6月 4日 県被爆者手帳友の会が”住民投票”開票。計画反対716、無効1、賛成0    7日 県彫樹会が市に「計画賛成」を陳晴   18日 市議会本会議で計画の白紙撤回を求める請願不採択 9月17日 市が新モニュメントの原型発表   20日 本紙アンケート報道「計画反対が過半数」 11月21日 長崎「原爆中心碑」問題を考える市民連絡会が新モニュメント制作費内訳の公文書非公開 で不服申し立て   26日 本紙報道「市民税12円納めず抗議」   28日 県宗教者懇話会が市に「計画見直し」陳情   29日 同市民連絡会が市に約11万人分の反対署名提出 12月 3日 同市民連絡会メンバーが「制作費支出は違法」と監査請求    5日 正副議長らが市長に「計画通り進めていい」と伝える   12日 広島・府中市立第2中学校の620人分の署名と手紙が市長に届く   18日 市議会本会議で計画見直しを求める請願不採択   19日 市が爆心地公園でボーリング開始   20日 市の反対署名電算処理が判明   21日 市長が反対署名した知人に見解を聞いたことが判明 ▼平成9年
1月10日 県宗教者懇話会が市の計画に一定の理解   16日 同市民連絡会が民意問う住民投票条例制定を求める直接請求を決定

1997/2/2(長崎)

社説 市民の力で残った中心碑

 長崎市の原爆落下中心碑建て替え問題は1日、伊藤市長が市の計画を撤回し、中心碑を現地に残すこ とでようやく決着する見通しとなった。  市が計画通り、中心碑の撤去と新たな母子像の設置を強行すれば、反対してきた被爆者や市民との対 立が決定的なものになり、被爆地の平和行政に禍根を残しかねない状況だっただけに、土壇場にきて混 乱回避に動いた市長の選択は賢明な判断と言えよう。  しかし、建て替え計画が明らかになった昨年3月以来の経過や市の硬直した対応をみるとき、今回の 決定は”英断”とだけ評価することはできない。  それはこの問題で、市の原爆平和行政に対する定見のなさや政策決定への民意の反映という市政遂行 上の根幹を成す問題が、市議会を含めて機能不全を起こしている実態があらためて浮き彫りになったか らだ。  中心碑問題がここまでこじれた最大の要因は「長年、祈りの象徴だった現在の碑をなぜ撤去し、母子 像に替えるのか」という市民の素朴な疑問に市が正面から答えようとしなかったことだ。  この疑問に対し市は「平和公園の在り方を検討してきた2つの委員会で、どんな中心碑に建て替える か決定ができなかったため、行政の責任で決めた」と繰り返すだけだった。  しかし、市の論拠となっている平和公園聖域化検討委員会、その後の平和公園再整備検討委員会の建 て替え答申は、現在の中心碑を生かす案と、よりシンプルにわき出る泉で爆心地を表す2つの案が具体 的に示してある。  両報告書から読み取れるのは、現在の碑を生かすか、抽象的な碑への建て替えがふさわしいとの内容 であり、そこから現在の碑を撤去し、母子像に替えるとの市の決定はあまりにも懸け離れており、独断 と言われても仕方のないものだったといえよう。  そこで市がよりどころにしたのは、昨年の3月市議会での全会一致での関係予算同意。しかし、同議 会では制作委託した作者の名前は明らかにされたが、どんな像になるのかの説明はまったくなかった。  9月になって母子像の原像が初めて公表されたが、市の期待に反して市民の反応は否定的なものが多 く、被爆地のほとんどすぺての宗教を網羅した県宗教者懇話会からも「ノー」を突き付けられた。  市が市民の声に耳を傾け、方針転換を図る機会は昨年の6月、9月、12月市議会があったはずたが、 3月市議会の予算同意に市当局、市議会ともに結果的には自縛された形となり、柔軟性を欠いた対応に 終始した。  本紙世論調査などでも、現在の中心碑撤去に反対する声が圧倒的な中で、母子像への建て替えに固執 し続けた市の姿勢は、「対話の市政」に市民の疑念を募らせた。  この問題に限っては「既に方針が決まっている」と市役所内部での自由な論議ができなかった、とも 聞く。政策決定に民意を反映させないで、どんな政策も実施できないことは明らかである。市民とのパ イプがどこで、なぜ閉じられてしまったのか、市は真摯(しんし)な反省が必要だ。  また、市が反対の市民団体の署名を電算入力して点検していた問題は、個人情報保護、人権保護など の観点から看過できない。市民が安心して各種の署名を行うのは当然の権利であり、これを侵害するよ うな市政に信頼はないことを肝に銘じ、再発防止策を確立してほしい。  一方、市議会も硬直した対応では、市と同様だった。中心碑撤去のお墨付きを与えたのは市議会であ る。「市の責任で決めたことは市の費任で対応すべき」との冷めた対応だけでは、市民の代表としての 機能は果たせるわけがない。議会が民意をくめず、惰性に陥っているからこそ、住民投票を求める声が 全国で沸き起こっていることをあらためて認識すべきだ。  伊藤市長が方針転換に踏み切ったのは、市民団体の反対運動だけではなく、その背後に民意の反映を 求める広範な市民がいたことを感じたからではないか。中心碑を残したのは市民だった。

1997/2/2-4(長崎) 連載 残った「三角柱」 原爆落下中心碑

(上)急転直下 水面下で解決策模索

 昨年4月以来、10ヵ月にわたり混迷を続けた長崎市の原爆落下中心碑撤去・建て替え問題は、伊藤 市長が被爆者、市民団体らの反対の声を受け入れる形で1日、円満解決した。三角柱は、被爆地長崎の 平和発信拠点として残ることになった。対立から一気に和解へ。その背景を緊急リポートする。  度々ため息 年が明け、新年度予算編成が大詰めを迎えていた市役所。市長はヒアリングのため市長室横の応接室 に缶詰め状態の日が続いた。「大変かパイ」。通常の激務に加え、市民らとの対立が深刻化する中心碑 問題。市長の口からは、度々ため息が漏れた。  問題が新たな局面に入ったのは、市長が長崎「原爆中心碑」問題を考える市民連絡会と2回目の会談 を持った先月24日だった。中野議長が、両者に「三角柱も母子像も爆心地公園内の中心地点以外の適 地に設置し、同地点につくるものは新たな協議会で検討する」との私案を示してからだ。  そして29日ごろ、市長に近い人物から「三角柱を存続して解決すべき」との進言を受けた。議長私 案を「重みのある案だ」と受け止めていただけに、予想だにしない要求。市長は驚きを隠さなかったと いう。  以来”ウルトラC”の模索が水面下で始まった。  この時点で「腹をくくった」といわれる市長は、有識者らとも相談。31日には、一部の報道機関に 「市長が重大な決意」との情報が流れた。  同日夕、市長周辺が慌ただしさを増した。中野議長が鹿児島出張から戻る時間だった。市内のあるホ テルに市長と議長、さらに他の関係者も交えた会合の席が設けられた。テーマはもちろん「市長の決断 」。私案に対する回答を求めていた議長だったが、最後は市長の考えに首を縦に振った。  3者が握手  まさに急転直下の解決劇だった。次の会合の席では翌日の「三角柱存続を表明」するための準備が進 められ、報道機関にも「あす、市長、議長、、連絡会が協議会を聞く」との連絡が入った。こうして、 3者が固い握手をする日を迎えた。  「円満解決」の記者会見が終わった1日午後4時ごろ,この日急きょ上京していた横尾英彦収入没か ら、市長の元に電話が入った。「富永先生が快く理解してくださいました」。市長の肩の荷が一気に下 りた。

(中)民意 問われ続けた行政姿勢

 「機が熟さないと、冷静な場で話し含う心境に至らなかった」。こう語る伊藤市長が、中心碑問題で 反対する長崎「原爆中心碑」問題を考える市民連絡会と初めて会談したのは、先月20日になってのこ とだ。同連絡会は常に市長との話し合いを求めてきた。拒んできたのは市長自身だった。  そして24日の2回目の会談。非公開の部屋で、冒頭の約10分間、話し会いは空転した。  「代表がこっちに座ってください」(市長)、「いいじゃないですか。今日は具体的な話をしたいん ですから」(連絡会則)。市長は話し相手にこだわった。  「感情が表に出る」。こんな市長評がある。感情はときとして、都合の悪いものを避けようとする形 で表れる。会談で相手にこだわった姿勢はその一つではなかったか。  10ヵ月間の混乱の中で「市長は反対者を色眼鏡で見ている」との指摘も聞かれた。今回の混乱の背 景には、「市民の声にいかに耳を傾けるか」という行政姿勢が問われ続けた。  内部の声も  「中心碑撤去」計画が発表される前、市内部から「行政だけで進めたら、後で大変なことになる」と の指摘があった。計画を説明した担当職員に、別の部局の幹部が「被爆者らの考えを聞くべきだ」と忠 告した場面だ。だが答えは「もう決まっている」。以来、内部で”ものを言える環境”は浮上せず、市 は計画通り突っ走った。  こうした独断的とも映る行政姿勢は、後に内部に疑問の声がありながら反対署名を電算処理したほか、 中心碑問題で行政のやり方を批判する市政モニターの報告書が市長まで届かなかった事実など、市民の 「声」を生かせない事態を引き起こし、自ら首を絞めてきたといえる。  一方、咋年3月定例会で中心碑撤去などを含む関係予算を採択、6、12月には撤去計画見直しを求 める請願をいずれも不採択とした市議会。ここにも「市民の声を代弁しているのかとの指摘が多く聞か れた。  中野議長は1日、問題解決後の記者会見で「議会は真剣に論議してきた」と言った。だが「一度決定し たことを覆せないというメンツにこだわった」と納得しない市民もいる。  大きい教訓  「行政がやることに賛否はつきものだ」。長崎新聞社に届いた市民からのファクスにもこうあった。 しかし、「賛」と「否」の市民の声を行政、議会がどう受け止め、どのように政策決定に反映させてき たのか。今回の問題が残した教訓は非常に大きい。  長崎市はニヵ月後、「行政への住民意思の的確かつ迅速な反映」を第一の効果に上げる「中核市」に 移行する。だが「中核市」も、いまだ市民に十分理解されていない。中心碑問題の反省に立った行政姿 勢が早速、問われてくる。

(下)ナガサキの心 「被爆地は一つ」確認

 「晴れの日も雲の日も毎日、上等の花ば持っていったとよ。浦上の丘に散ったみんなを慰めたい、そ の一心で」―。  行政上は指標  戦後まもなく、原爆で廃墟と化した長崎市の爆心地に「小さな円柱」がぽつんと建った。最初の中心 碑だ。その俊「矢の形」「木柱」へと姿を変え、現在の「三角柱」がある。約52年前の「小さな円柱 」が建ったときから毎朝、花を手に中心碑に通い続けた人がいた。同市平野町の平山チカさん(92)。  その中心碑の撤去・建て替え計画に対し、多くの被爆者や市民らが反対の声を上げた。「中心碑は多 くの人が折りをささげてきた慰霊碑」「遺骨すら拾えなかった遺族にとっては墓標でもある」。こうし た思いは、被爆者団体、平和団体などの陳情や抗議の形で、行政側に何度も届けられた。  これに対する市側の回答は―。「中心碑は爆心地の位置を示す指標」「市議会を通過している。予定 通り建て替えさせてもらう」。いかにも行政的で、陳情者の一人は「冷たく響いた」と肩を落とした。  「中心碑は単に行政的な中心地点を示すものではなく、多くや人の心のよりどころになっています」 。同市内の被爆者の男性から長崎新聞社に届いたファクスにも、こうした思いがつづられていた。市は 「三角柱存続」の決断が間近になったころ、「被爆者らに墓標的な気持ちが募ってきたことは理解でき る」と歩み寄った。だが、既に両者の溝は深まりすぎていた。  ”よりどころ”  先月29日、長崎原爆被災者協議会は理事会を開いた。中野議長が示した私案を検討するためだった が、唯一決めたことは「なぜ今の三角柱ではだめなのか、市長と議長に説明を求める」ことだった。  中心碑問題は、市が三角柱を現地存続することで解決した。が、行政は「なぜ三角柱ではだめなのか 」という被爆者や市民の素朴な疑問に答えを出していない。  10ヵ月続いた混乱の中で、反対してきた人たちに対しても、次のような指摘があった。「今まで、 どれだけの人が中心碑を大事にしてきたのか」  これには、中心碑に献花を続けてきた平山さんの答えがある。「だいも手入れせんやった。わたしが 花をささげていると、あざけり笑う入もおった」。平山さんは今病床にある。悔しい思いを語る口調に 、力強さはない。だが、みんなが胸に刻まねばならない思い言葉だ。  世界に平和と核兵器廃絶を発信する「ナガサキの心」は一つだ。中心碑をめぐり揺れた被爆地は今回 、そのことをあらためて確認できた。そして三角柱は次代に残った。この「心」のよいどころを、これ まで以上に大切にすることも中心碑問題は教えてくれた。    (報道部・池本仁史)

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